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7年の歳月

先ほど姉とリビングでテレビを見ていたときに気がついた。「今日はお母の命日じゃん」と。
母親、ぼくはお母(おかあ)と呼んでいた。今年でなくなってから7年が経つ。小学1年生だった子供が中学1年生になるくらいの時の流れだ。あれから僕は成長したんだろうか。高3だったまだ少年は立派に育ったのか。
記憶があいまいだが、ちょっと書いてみようかと思う。
2005年、高2の時だっただろうか。母親にがんが見つかった。子宮頸癌から始まり、気がつけばがん細胞が全身に転移、ステージ4の末期という絶望の状態。そういえば「肩にしこりみたいなものがある」そんなことを言っていたなと。まさかその頃にすでに体がそれほど蝕まれていたとは知る由もなかった。
しばらく地元のがんセンターへと入院することになり長い闘病生活が始まった。入院して間もないころだろうか、その間僕は修学旅行へと行ってきた。それから家似帰宅すると、お母が帰ってきていた。あんなに元気だった母親がこれまで見たことがないほど弱弱しくなり、嘘のように痩せていた。その姿にさすがの僕もショックで涙をこらえることができなかった。あの衝撃といったらなんだったというのか。
それから病院、そしておばあちゃんち(お母の実家)に行ったり来たりを繰り返していた。部活が休みだったり、春休みの練習の帰りに病院へ寄ったり。今思えばもっと行けばよかたっと思っている。行ったら行ったでよく「帰れ」と言われたっけ。食べたくても思うように食べれず、残ったものを母親の目の前で僕が食べる。たいそう憎らしかったに違いない。「帰れ」、そう言われるのが結構ショックだったりしたなあと。
抗がん剤の副作用は思っていた以上に強烈で、髪の毛は抜け体は骨と皮しかないようにやせ細り、すっかり体力を奪われ、最後のほうは意識も薄れて飛んでいた。今まで元気だった母親はもうそこにはいなかった。つらい治療でも母親は耐えてきて、「ここまで耐えた患者は今までにいない」と医師や看護師が驚いていたそうだ。
2006年7月、高3の夏。母親が家に帰りたいというので自宅で過ごすことになった。僕も野球を早々と引退し、一緒に過ごすことになった。しかしそのころから黄疸が見られはじめ、再び病院へ。そして体の痛みから苦痛を和らげるため、モルヒネ(だったかな?あまり覚えていない)を投与することに。初め僕は反対した(子ども心として)が、母親も打ってほしいと願っていたため了承せざるを得なかった。僕も幼かったのかな?生きてはいるが眠った状態になる、ただ痛みや苦痛から全て解放される。本人が楽になれるならば仕方のないことだった。
夏休み最後の夜母親と同じ病室で過ごす。朝がやってきて、ぼくはこれから学校に行かなければならない。そしてこの数時間後には母親は眠りに着く。実質最後のお別れで、病室を出る前にお礼を言って、さすがに涙をこらえきれなかった。その姿を後ろから見ていた看護師は何を思っただろうか?妙に朝焼けがきれいだったのを覚えている。
そして夕方、進路指導室にいるときに、母親が亡くなった知らせが入った。薬を投与して数時間後のこと、本当に逝ってしまたっと。再び再会したその時、さすがに涙は出なかった。入院して1年もしないうちに人間はこんなになってしまうものなのかと。恐らく抗がん剤の影響が相当大きいのかと僕は思う。僕も当時、色々と調べ回って金も使い何としてでも助けたかった。正直母親が死ぬだなんて思わなかったしあきらめてなかった。けど最後の最後で薬を投与するという話が出たときにはさすがに折れてしまった。
入院したばかりの頃僕にあてた手紙が今でも残ってる。それと整理していたところ入院生活の心情を綴っていた日記も発見した。どういう気持ちで書いていたのか想像するだけで胸が痛い。
そういえば、入院している時、僕を気遣って親戚のおばさんが練習着を洗ってくれていたのだが、さすがに申し訳なく、自分で洗っていた。今まで(親が元気だったときは)練習着は洗ってもらっていたしそれが当たり前だと思っていた。野球部の土の汚れは相当ひどく、洗濯機だけではなかなか落ちない、そのため洗濯板でごしごしと洗い続けなければならないかなりの重労働である。自分で洗い始めた当初、相当辛くて泣きながら洗っていたっけ(笑)こんな大変なことを毎日してくれていたと思うとほんと感謝である。自分が不自由なく何かできているのはそれを支えてくれる人がいたからということ、今も強く思う。掃除だって洗濯だって食事だってなんだって。一人暮らししてからは自分で何でもやるというのが当たり前になったわけだけれども。

今頃生きていたらどうだっただろうか?姉は「生きていたら生きていたで苦労してたと思うよ」僕も同じ意見である。結局金銭的にやっていけてな方っと思う。以前に何度も書いたけれども、僕と姉が高校を卒業して進学できたのはじいちゃんばあちゃんがお金を出してくれた、おかげなのだ。
そして親父の話も。やっぱりおやじは鬱だったのかもしれないねと。死に方が死に方だったからさすがにかわいそうだたっと、親父嫌いであった姉は言う。福岡に旅立つ前、その前からもっと優しく手をさしのばしていたらちょっとは違う結果になったのかもしれない。僕も親父には素直になれなかったし、どこか毛嫌いをしていた。そこは後悔している。ただ、やっぱり母親がなくなったのが親父にとって一番のショックだったんだろう。
「やっぱり男のほうが弱いんだと思うよ」姉は言う。本当にそうだろう。僕も女の子がいなければ生きてはいけないし生きる気力も出ない。

普通の家庭の同世代ならば働きだしている年齢。これから親孝行をするのかもしれない。たまに実家に戻ってくれば温かく出迎えて、一緒に食事でもするのかもしれない。それができなくなった今、ちょっぴり寂しいもんだ。
7年経った今、振り返れば短い。ただ7年間という貴重な時間を僕は有効に過ごせただろうか。後悔ばかり多い。今も僕も迷走を続けている、これから先どうなるかわからない。少なくとも一度くじけたぶん強くなったと思うし、弱くもなたっと思う。けどこれから胸張って生きていきたいなあと。
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