人生消化試合

今日隣町へと買い物に行ってきた。ふと買い物最中におっぱいに挟まれたいなあと思った。最上もがのおっぱいが頭に浮かぶ。大きければいいもんじゃないけど小さいのは非常に悲しい。アイドルって整形するし枕営業もするし週刊誌にプライベート狙われまくりだけど、そこまでして成りたいもんなのか僕にはわかんない。まあ金は稼げるけど。でも売れなかったらアルバイト並、もしくはそれ以下じゃないか。AKBはモー娘。をはるかに越してしまったが、個人的には乃木坂のほうが良い。僕はおニャン子クラブはよく知らないけれども、アイドルビジネスにおいて秋元康は成功者、やっぱり天才なのかなと思う。

25歳以降の人生は消化試合感半端ないやつ→

まさにこんな感じ。オワッテルってワケではないけれども、残りの人生が消化試合感が半端ない。こんなこと言っちゃってるっておそらくジジ臭くてやばいのかもしれない。仮に80歳まで生きるとするならばまだ55年近くもある。そんなに生きれるとは思わないけど、55年もあったらだるいなあと思うね。
10代の時って夢だとか希望だとか言うけど、遅くとも10代後半~20歳直後ぐらいには自分の能力なんてたかが知れてるなってわかるよね。「自分の力はこんなもんじゃない」「まだまだやれる」「努力すればできるはず」「明日から本気出す」なんて言ってもほぼ無駄。遅咲きはあれど、能力ある人間は若いうちから圧倒的なものを持っている。学力だとか運動能力だとか芸術的能力だとか商売力だとか・・・その他いろいろ。しかしながら僕のような超平凡人間たちのほうが圧倒的に多いわけであって、そんな縁と関係ねえよって世界で生きてる。ある程度下克上可能な新卒の就職活動なんてまだ生易しいんじゃないかなって。無力感というか、僕としては自分の能力の無さというよりも、能力がある人間が世の中に溢れるほどいるんだ分かった時点で結構絶望的だったんだけどね。井の中の蛙ってやつです。「若いんだら何でもできるよ」なんてよく聞くけどあれ嘘だよ。したいことへの適正、そして能力、加えて財力や時間がなけりゃ若かろうとなんだろうとできません。20代に突入してから、もうなんていうのか「人生ってこんなもんなの?」的な空虚感に襲われてる。学生生活ですら結構飽々したし、働いてからは金は入るが心に余裕が持てない。それに昔思い描いていたよりも日々が淡々としていて、かつ単純で苦痛な毎日を消化している感は否めない。積もるのは後悔と未練。時間なんてあっという間に過ぎ去るし、鏡見れば年取った感が半端ない。
この歳になると今までのもの見方や目線もえらく変わってきて、何より周りの視線も以前に増して厳しくなってくるのがひしひしと感じられる。これが世間のしがらみってやつ。なんというか、僕の30代とか全く想像できません。4,50代?知らねぇよ。こんな糞な日常が死ぬまで永遠と続くと思うと絶望である。楽しく生きろ?俺はラテン系の人間でもでも南の国の人間でもないんだようんこ。だらだら死を待つまで生きていくのってしんどい。淡々とした日常に加えて自らの肉体も老いて行くこともさらなる恐怖なんですね・・・平凡な人間には平凡なりの生き方ってものがあって、皆それを受け入れて人生楽しんでると思うけどなんだかなぁ。人とは悩みの方向がずれてるんだろうな。
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暇という苦痛

どうやら今日からGWらしい。でも僕には全く関係のない話。まあ今頃働いていたとしてもどうせGWは繁忙期だし8連勤、10連勤だったに違いないので結局は関係無かった話だ。それにしてもね、朝からものすごくいい天気でもったいなかったなーと思う。夕方に友人としゃべっていたが、ホント一日なんてあっという間だよなあと。ニコニコ超会議が面白そうなので行きたいけれども幕張までっていうのはだるいね。

さて、こんな毎日なのでそろそろいろいろなものに飽き飽きしてきた。一日中ネットをするのも飽きたし、本読んでも眠くなる。外に出ようと思っても大して面白い場所はないし、平日なんて誘う相手もいないしもちろん休日も。金の消費もなるたけ避けるためにはいいのかもしれないけれども。生産活動もしない、消費活動もしない、ふと俺はただのうんこ製造機なんじゃないかとうんこをしながら思った。「人生とは死ぬまでの暇つぶし」と言うがまさにその通りだと思う。
そののひまつぶしの大半は仕事が担っているんじゃないのかと。もちろんこの資本主義社会を生き延びるためには稼がないといけないわけなので、庶民派はそうせざるを得ないというのが正しい答え。飽き飽きした毎日だし、若くいられる貴重な時間を無駄にしているとわかっていながらも、一度停止したエンジンを動かすのは相当な労力がいるもので。早く働きたいなあと思うし、働いたら精神削られるのかと嫌だなあと思う。まあ「このままではやばいな」というのが正直な思いですね。とりあえず求人はチェックしてるけどやっぱりなあぁ・・・・という感じ。自分に価値があるとは全く思えないのだけれども、それでも選んでしまうもんなんだよね。

そこでふと、仕事を辞めた人間ってのは、こんな有り余る時間を死ぬまで消化していかなければいけないのかなと。今まで仕事に人生の大半を仕事に費やしてきたリーマンが定年迎えたあとに、どーんと莫大なる時間を目の前にどう思うんだろうか。今ですらしんどいのに耐えられる気がしない。あまりにも自由で暇すぎて何をしたらいいかわからない人が大半何じゃないのかなと。60~65歳と言ってもまだ体は動くだろうけれども、若い時と比べたら体力的にだいぶしんどくなっていくだろうし、趣味があると言ってもいつまで出来るかはわからない。あとは更なる老いと死を待つだけだろう。「老後の楽しみ」なんてよく言うけどそんないいものなんだろうか?椅子に座り、カレンダーを見ながらぼけーっとふと思う。そもそも論として、僕達がその頃になったら老後の楽しみなんて言っているほど余裕のなくなってる時代になってるんじゃないかな。例え余裕があっても果たして有り余る時間を目の前に「暇」に耐えられるものなんだろうか。
例えば病気で倒れてずっとベッドの上で過ごす羽目になるかもしれないし、配偶者に先立たれてしまうかもしれない。悪いこと考え出したらきりがないけれども現実に起こりうることで。あくまで健康な状態で老後の暇な時間を過ごすとしても暇には変わりないんだろう。なんか色々考えると、やっぱり長生きはしたくないなあと。若いうちにころっと逝きたいものである。
みんな人生楽しんでいるんですかねぇ。

綺麗事は嫌い

例えば目の前に困っている人がいれば助けるでしょうか?おそらく放っておけないけないと思うので助けると思います。じゃあテレビの画面の向こうに写っている人が泣いていたり困っていたり悲しんでいたらどうでしょうか?正直に言えばどうでもいいと思います。だって直接関係ないし、僕があーだこーだ思ったとしても画面の向こう側の人間なので何もできません。
ほとんどの人間ってそんなもんじゃないでしょうか。個人ができることなんて限られてる。それに自分に直接関係ないものに関しては一瞬感情移入しても大体はどうでもいいと思うもので。もし強い思いがあるのならばと、何かしらの行動に移しているはずだと思います。でも自分が大事だから自分の人生が大事だから自分の今あるもの、お金や仕事や環境を捨ててまでも何かしようだなんて思うはずがないのです。仮に行動に移していたとしても「へーすごいね」で終わりです。そこまで他人に興味を持てる人ってそんないないんじゃないでしょうか?いたとしてもすごくマイノリティーですから、そんなもんだと思います。そのマイノリティー側の人達は素直にすごいと思いますが、一瞬「すごい」と思うだけですぐに他のことに意識が行ってしまって結局どうでもいいと思ってしまいます。ものすごく冷酷なようですが、大半の人間は所詮そんなもんでしょう。
そんだけ。

不快な目覚め

月一ぐらいで見る野球の夢。いや、もっと正確に言えば野球部の夢。これらが夢に出てくるとたいてい悪い結末のまま目が覚める。監督やコーチやチームメイトからの罵声を浴びせられる。起きれば汗びっしょり。
楽しい思い出よりもつらい思い出・嫌な思い出のほうが圧倒的に多い。練習中、試合中どこでも罵倒んなんて当たり前。下手っぴ、気が弱い僕にとっては精神的に来ることばかりだった。中学時代はグランドに行くのが楽しみだったのに、高校時代になってからはグランドに行きたくなくなってしまったよ。今思えば辞めたかった1年の夏でさっさとやめて、転部してしまえばよかったと思ってる。他の部活に比べ無駄に練習時間が長い。だからと言って長い時間練習しても勝てるわけでもない。道具にもカネがかかるし勉強時間も確保するのが難しい、費用対効果が一番悪い部活だと思ってる。そして時代遅れのスポーツ理論に無駄な精神論。合理的になれない指導者たち。坊主は強制。アホみたいに大きな声で挨拶をし、アホみたいに頭を下げる。先輩には絶対服従。休みたくても休めない監視社会、連帯責任。完全な村社会。今の野球部って軍隊養成所、いやどこかブラック企業に通ずる部分があると思ってる。辞めたくてもなかなか辞めさせるというような雰囲気でも体質でもないし。野球は娯楽として見る分にはいい。草野球として楽しむ分にはいい。それ以上は決していいものではない。

嫌なものや、不快な体験っていうものはホント厄介なほど体や脳の奥隅々まで染み付いちゃって、幾ら癒やそう思ってもその毒素ってなかなか抜けないもんなんだよね。困ったもんだと思う。夢にまで出てくるのだから。

大学1年の時にヨット部に入った。でも冬でやめた。夏までは楽しかったが、本格的に練習が始まるとなんだかだるかった。辞めたかったのはOBがうざかったから。金がかかるのでOBなくして成り立たたなかったが、指導にしろイベント時にしろ非常に五月蝿い。それでも嫌な思い出がないのは、嫌な思い出が出来る前にやめたこと、それまで楽しいことのほうが多かったからだ。
体育会系なんて結局どこも一緒だと思う。年長を頂点としたヒエラルキー。年上であるならばそれだけで年下に対して威厳を持つことができる。できなけりゃ罵倒、時に暴力(経験したことはないけど)。僕には体育会系気質は向いていないようだ。


だるいね

かったるいよ。だるいよだるい。
生きるのってほんとだるいと思うよ。常に走り続けなければいけない。走るのをやめてしまったら置いて行かれる、ただそれだけ。「長い人生だから時にたちどまっていいよ」そうは言うけど、3割正しくて7割正しくない。養ってもらっているうちはそれでもいいのかもしれない。だって養ってもらってるんだからお金の心配なんてする必要なんてない。自活せざるをえなくなれば、立ち止まってる時間が長くなればなるほどそれが致命傷になるだけ。経済的的圧力もとてつもなく大きい。生活費、奨学金、年金、健康保険・・・。

朝から姉の子どもたちの鳴き声が家中に響き渡る。「子供が泣くのは仕事」、子供が泣くの仕方ないけど決して仕事ではない。素直にうるせーなと思う。「ママ、ママ」と愛情と安心を求める。そんなママは子供の絶対神だろう。パパでは決して越えられない壁。それまで与えられたものに満足していたはずが、最近はそんな大好きなママにも反抗する態度を見せるようになってきた。彼らには悩みなんてないし、生きることに必死になってるわけでもない。ただ自分の欲求に忠実に生きている。それが子供。欲求が通らなくなれば泣き叫ぶ、それだけ。

先日久しぶりにばあさんの家に行ってきた。部屋の電球ががチカチカしてるから変えてくれと。年をとったら体が思うように動かなくなる。僕には全く想像ができない。目が悪くなってる実感はあるけれども。足も悪いので長時間歩くことができない。一日中テレビ見てゴロンとしてる。「すごく暇そう」これが率直な感想、これが老後の生活ってやつですか。じいさんは相変わらず介護施設。倒れなかったら今頃ばあさんとこの部屋でテレビ見てゴロンしてたんだろうか。こんな生活が当たり前になってきてるので元気な時の爺さんの姿が思い出せない。
たまに「とっとと死にたいよ」と本気が冗談かわからんけど口にしてくる。僕も「生きてるのがかったるいからとっとと死にたいよ」と口にする。高校卒業時、担任が言ってた「いいか、死ぬ順番だけは絶対守れよ」と言ってた。先生や親より先に死ぬなって。もう親は死んでるから別に構わんが、ばあさんより僕が先に死んだら悲しむだろうなと思う。長生きすれば金もかかる、体もぼろぼろになる。若いうちに、元気なうちに死にたいと思うのは何も特別なことではない。自然なことであると思う。

昨日、秋葉原で事件を起こした加藤の弟が自殺していたという記事を読んだ。「死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。」読んでいたら悲しくなったよ。被害者家族も苦しい、しかしそれと同じくらい加害者家族も苦しい。この国の人間は事件を起こした本人とは全く関係ない家族まで犯罪者扱いをするのですか。家族は連帯責任ってことなんですか。子が起こした犯罪は親の責任ですか?いいえ、子の責任です。兄が起こした犯罪は弟の責任なんでしょうか?いいえ、兄の責任です。そういえば不祥事を起こした野球部が甲子園や、重要な大会を辞退するしてるのは恒例行事。これも連帯責任ってやつですか、アホらしい。経済だけ先進国であって思想は後進国。野蛮な国民だとお思うよ。自殺に追い込んだ犯人は日本人です、この国の国民です。事件が起こるたび、律儀で真面目な国民は正義の仮面をかぶった殺人者集団になるんだよ。今日も誰かが追い詰められて殺されるんだろうか。

「あの会社で働きたいな」「結婚して、息子と虫取りに行って・・・」中学生の頃なんとなくそんなこと思ってたけど、そんなのただの妄想に過ぎなかった。学力も学歴も結局足りてない。そして今や落ち目の業界、そして会社。それが現実。彼女できるかななんて思い描いていた大学入学当時。なんだかんだで気づけば何もないまま終了。それが現実。「結婚に焦るアラサー女子」。お見合い番組に自衛隊の人間が出てる始末。40代の未婚。これが現実。彼女作るのだって結婚だって本当に望まなければできないと思う。ベルトコンベアーのように向こうから自動的にやってくるわけない。「○○なら彼女できそうなのにー」よく言われた言葉。結局本気で望まなかったからできなかったんだろう。結婚したいかと言われたら別にしたいとは思えない。

かったるいよ。だるいよだるい。
こんなこと言ってはダメですか?怠けてる人間の言う事なんですか?いいえ、みんな口にしないだけでそれが人間の本質だと思ってる。僕は生憎強いハートも、メンタルもあるわけでもないのでね。土日はみんな休みだから気分が楽。でも明日からまた平日。5日もしくは6日働いたらまた土日。それの何回も繰り返し。日常なんてそんなもの。ドラマのような展開を望んでるのは恋に恋する少女のようなもの。画面に映し出される光景はは日常を継ぎ接ぎしたものにすぎない。
仕事、結局雇われの身であればどこで働いたって本質は変わらない。いかに我慢できるか、どこまで自分を捨てられるか。給料とその他待遇が違うだけで会社ってそんなもんだと思う。自分で金を稼げる力がないのなら組織に従うだけ。
最近やっぱり普通に働こうかとも考えている。無論就職先があればの話。もう言ってることがコロコロ変わるのが僕という人間。ほんと、生きるのってかったるいんですよ。外野がくっそうるさいのでどういう生き方しても、どういう思想でも常に監視の目、そして批判が入るのですよ。
かったるい、だるい。そう連呼してもいいじゃない

でぃえっと

ふとカレンダーを見上げると、ちょうど一ヶ月後に26歳の誕生日を迎えることになる。ホントあっという間だよな。時間は全く容赦無い。もしかしたらこの世で一番残酷なものなのかもしれない。この不可逆的な力に逆らって生きていけれたらどんなに楽で面白いんだろうか。4発に入って春らしからぬ寒い日が続いて参っていたけれども、ようやく暖かくなってくれたな思う。布団を干しにベランダに出ると春の陽気で非常に気持ち良い。こんな陽気なのでどこか旅に出かければいいのに。昔の自分であれば、きっとどこかに出かけてるんだろうなと思うけど、今はそんな元気はない。正確に言えばかったるい。そう、かったるいのだ。
こう見るとブログの更新率が徐々に減っている。今でさえくだらないことしか書いていないのに、学生時代の日記は更にくだらないことばかり書いているなあと改めて思う。恥ずかしいよ。でもあの頃は文を書くだけの気力も体力もネタあったのかもしれない。とにかく文章を書くという作業は非常に労力のいるもので、頭のなかに浮かんだ断片をかき集めてなんとか組み立てていくまるでパズルのようなもの。ただ、実際のピースには絵柄や形があるけれども、頭のなかの言葉のピースにはそれらがない。おまけに浮かんでは消え、浮かんでは消えの繰り返し。一日の締めくくりに何を書こうかと、ずっと考えていても書き留めておかないとすべてを忘れる。不安定さの中でうまく組み合えあせてようやく完成したと思ったら無駄に時間が過ぎている。。
多分シンプルな日記として、例えば、今日あった出来事をつらつら書いていくだけであれば結構書けるものなのかもしれない。最近の記事なんて特にそんな感じ。山の山登っただとか桜見に行っただとか頭使わなくても書ける記録であればそんな悩むこともないんだろう。ただ、この歳になってくると単純なことではなくてもっと内面的なもの、もっと心の奥深くダークな部分をうまく表現して書き留めておきたい。いろんな人の文章を読んでると、「この表現うまいなー」とか「構成がいいなー」なんてよく思う。もともと国語も嫌いだし、文章を書く課題が出た時はお手上げだ。小論文に至ってはなんとなく、読書感想文なんて未だにどう書けばいいかもわからない。本なんて全く読まない。小さい頃から本を読む癖があればもっと言葉を知ってたかもしれないし今よりはまともな文章力がついていたかもしれない。読書好きの人間はすごいなって、きっと表現方法とか文の書き方上手いんだろうなーって勝手に想像してしまう。だから自分もよく見せようとか、だからからうまく書けないんだよね。要はかっこつけたいんですよ。多分また働き始めたら仕事の愚痴ばっかりになるんだろうなきっと。

さて、今月に入ってから食事をガラリと変えてみた。これまでのストレス発散方法として運動もせずに食で向かっていたせいか、地元に帰ってきてから半年で約8キロ増量してしまったわけだ。「デブは甘え」まさにごもっともだと思ってます。自己管理ができていない証拠。というわけで野菜中心、というか主食はサラダ。加えて、炭水化物は朝か昼にパスタ。米は高いし便が硬くなるので本当は食べたいけれども、避けている。タンパク質は卵と納豆。そろそろ肉が食いたいかなと思ってる。この食事にかえてからすこぶる便の調子が良くなったし、特に辛く無いというのが感想。おそらくドレッシングの力がでかいかな。今のところ、9日前の朝の体重と比べて約1.5キロ位は体重が違うんだろうか。
まあろくに運動もしてないし、運動はじめたらだいぶ変わると思う。先日久々に走ってみたら3キロ走るのが精一杯だった。これでも3年前くらいはハーフマラソン走り切れるくらいの体力はまだあったわけですが、本当に運動してないと恐ろしいほどに朽ち果てるのね。とりあえず月2キロずつの減量を目指す。
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