どうなるかはわからない

本日2校目の試験結果が出たけど予想通り通り落ちてた。今まで受験生と言う肩書きでしたが今日から晴れて無職という身分が確定したわけだ。別に悲しくはない。まあ結果がわかった分、もやもやしていたものがある意味すっきりしたかな。でも4カ月無駄になったのかもしれない。
競争社会だから受験にせよ就職試験にせよパスしない限りはスタートラインにすら立てない。プロセスよりも結果がでなければ意味がない。残酷だけれどもそういう仕組みだから仕方のない。まあ筆記に関しては明らかに勉強不足だったことは否めないけれども。面接は何とも言えない・・・。

何のために仕事辞めて地元戻ってきたんだっけ。来年の受験をどうしようかなんてまだ明確に決められない。時間が経つにつれてだんだんこだわりが薄れてきている。「もっと違う道があるんじゃないか」「ひとつのことにとらわれすぎなんじゃないか」そう心の奥でささやいている。最悪の事態は来年受験してまた失敗すること。面接・・・医療福祉系の宿命。筆記だけなら何とかなるかもしれないが判断基準の良くわからない面接はどうすればいいものだろうか。失敗すれば1年無駄にするという取り返しのつかない事のリスクがあまりにも大きすぎる。それが怖くて卑屈になる。
職業なんて一つだけではない、無数にある。だからそこまで悩む必要もあるのか。一つのことにとらわれ過ぎなんじゃないかって。いずれにせよ働く必要がある。生活資金を稼ぎつつ、更に金も貯める必要がある。資金がなければ次にやりたい事も何も出きない。できれば先に繋げたい。でも繋がるかどうなるかなんてわからない。
言動がころころ変わる。言動と行動が事が矛盾している。自分の意志や言動を変える事が後ろめたくて怖い。それは余計に僕を卑屈にさせる。結局口だけの男なんだろうか。このどうしようもなく堪らない不安ってどうにかならないものなのかなあ。
受験したくなったら受ければいいし、そのまま働きたいと思えば働けばいいかなって。バイトにするか、職を探すか。自分でも何が良い選択なのか、この先どうなるかなんてわからない。いずれにせよ最終的な目標にたどり着ければいいと思ってる。
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食いつぶされる

過去に滞納していた分の国民年金と国民健康保険を支払う。約8万円が消えて行った。働いていたときは給料から自動的に天引きされていた。給与明細見ながら「まあ仕方ないか。」たったその一言であきらめざるを得なかった。自分で払う立場になった今「払いたくない」その気持ちが強い。その結果滞納。貯金も目減りしていく。こんな不公平な制度の維持のために汗水流して働いた金を捨てなきゃいけないなんて納得できない。

今払ってる年金は積み立てられてるのか?いいや、僕らが払ってる年金は今生きている老人の年金にそのまま充てられている。団塊世代が次々と退職してこれから年金受給者が増えて行くのはすでに分かっている。それに歳をとれば体の至る所に害が生じる。病院通いの老人が増えて行く。昼間に病院に行けばわかるが待合室にいるのは老人ばかりだ。医療費だって年々増大。世界最速で進む高齢化。子どもは増えるどころか減っている。人口ピラミッドを見れば明らかだ。結局この負担は誰が背負うのか、働く若い世代だ。若い世代に負担のしわ寄せが行っているのは目に見えて分かるだろうか。

長生きすればするほど金がかかる。そして長生きする人間が増ええばその分の負担は増す。医療費も年金もどう考えても食いつぶされている。そして金も権力も老人達が握っている。福祉の充実なんていならない。国家予算を医療費に充てるのならば早急に少子化対策をし、そこにあてるべきじゃないんだろうか。でもそんな議論を真剣にされてない時点ですでに政治家たちもあきらめてるんだろう。もうオワコンだよ。今の老人達はぬくぬく生きて、そして死んでいく。先のことなんて考える必要はない。残された時間なんてなんてたかが知れてるから自分らさえよければどうでもいい。でも僕らはまだ未来がある。出口の見えないトンネルを走っているようで不安で仕方ないのだ。楽観論なんてそこに存在しない。

給料は増えない。でも負担だけは増えて行く。手元に残る金なんてたかが知れてる。稼げない人間は結婚できない。子供なんて作れない育てられない。働いても働いても豊かになれない。馬鹿らしくないのか。
日本は先進国じゃない、衰退国であることを自覚しなきゃいけない。これから復活だとか栄えて行くなんて言うのは単なる妄想だ。

久々にビール飲むビール

感情っていったいどこへ吐き出せばいいのか。
僕はそれはそれは甘ちゃんだった。しかし、それまで精神的なよりどころであった母親を亡くしてから、どこか強い人間でなくちゃいけないと思っていた。辛いことがあってもだれにも頼れないんだと。でも21歳の時、自分ってのはこんな弱い人間だと思い知らされた。そして潰れかけた。

何か頼れるものがある人ってうらやましいと思う。親であったり、友人であったり、恋人であったり。僕は誰も頼るものがいない。友人と話すときが一番気が楽だ。でもどこかで一線はおいている。弱いところを見られたくないからかもしれないだ。どんな思いや不安を抱えていようが、自分の中ですべて消化しなければいけないのだ。何かに頼ること、そして依存することに抵抗がある。そして結局は他人だってある程度までしか助けることができない。だから自分で解決する必要がある。
リアルな世界で出すことができない、行き場のない感情は結局ブログで吐きだすことになる。だからネットの世界は唯一吐きだせる場所でもある。ただ、何処まで私的感情を出してもいいのか。いくら匿名だとはいえ、出し過ぎるのもよくないのかなと最近な思い始めている。
そう言えば久々にビールをのんだ。すごく気持ちがいい。でもその反面気持ちも高ぶる。ビールを飲んでる時みたいにずっと気持ちの良いまま生きれないものなんだろうか。

希望の種

長生きしたくないのは本当に思っている。けれども死ぬだけの決意も立ち上がれないほどの絶望の経験もまだないし、そもそも「死」が怖い。だから今もこうやっていつもと変わらず生き続けているわけだ。ただ、生きるからにはやはり何か希望がほしい。そこで大きな目標や目的を持つことが、一つの希望になり得るんじゃないかなと思ってる。
僕にとってのそれが海外移住である。(正直職の方向が定まってから言うべきことなのかもしれないけれども。)
以前から関心があり、もしかしたらできるんじゃないかと、そんな事を考えていた。からである。ここ数年、日本に対しての不信を抱くようになった。今まで当たり前だと思っていた事に対して非常に疑問を感じるようになり、考えれば考えるほどどこか息苦しさを感じるし、どうも悪いことが目についてしまう。特に労働環境と労働に対する考え方に対する不満も大きい。
日本は素晴らしい国だというけど、果たして本当にそうなんだろうか。海外に出たこともないし住んだこともないので僕はよくわからない。比較対象がないからだ。もちろんどの国でも良い面悪い面両方存在するとは思う。自分の理想とする楽園なんてものは存在しない。だから自分で確かめてみたいわけでもある。他人が海外より日本のほうがいいと思っても、僕はどう思う感なんてのは実際自分で感じてみないとわからないのである。

調べていると現時点でオーストラリアという国が一番いいのではないかと考えている(オーストラリア以外は厳しそう)移民国家であり、気候的にもよかろうと。そしてなによりもビザなのだ。どの国もスポンサービザを取るのが非常に難しいとの事らしいのだが、スポンサーのいらない独立技術ビザと言うものが存在する。 Skilled Occupation Listに記載されている職業ならば十分ビザがとれる可能性がある。所謂「手に職」系の職種だ。ただ、移民法の改正でリストから外される職業もあるわけなんだけど。
僕が看護師を選んだのもいざとなれば海外でも働ける職であったからというのがある。あるブログで同じことを実行しようとしている先駆者がいるのでとりあえずモデルがあるのがありがたい。ただ、正直言えば看護師なんぞやりたくないのが本音だ。前にも書いたがあくまで職業としての選んだだけであって心からやりたくて選んだわけではない。ただオーストラリアと日本では考え方が違うと思うので日本の労働環境よりかはましなんだろうとは思っている。
受験に失敗してしまった今、職業をどうするか再び検討しているわけなんだけど、SOLに記載されている職業をどこか意識してる。看護師にしても何ししても、国家資格が必要な職業はまず学校に入らなければいけないわけで、入試を突破しないとスタートラインにも立つことすらできない。なので、看護師一本でまた来年受験に失敗したら・・・・と考えるとやはり視野を広くしておくべきなのかと思う。せっかく学んだ電気系の職をもう一度考えるという手もある(本当は嫌だが)。学校に通わず就職して実務経験積む方法もあるわけで、それならば学校3年行く間に3年分の実務経験が積める。ただ、未経験から雇ってくれるかどうかなのだ。そうも考えつつ、あまり意識しないで自分のやりたいなあと思えた仕事をやるという手もある。これも雇ってくれるかどうかわからないけれども。

まあいずれにせよ、オーストラリアで働くことを目的とするならば
・国内での実務経験を積むこと
・英語を勉強すること(IELTSで求められるスコアをとること)
・資金を確保すること(免許によって向こうの大学もしくは専門学校で学ぶ必要があるので)
が必要必要なわけで、実行するなら早くから事を進めるに越したことはない。
まずは職の方向を決めることなんだ。だから悩んでるんだよね。



極端だとしても

自分が人間として唯一分かってることと言えば確実に死に向かってることぐらい。この世に生まれたものは必ず死ぬ運命なのである。それが遅かれ早かれという話。「死」というものがいつもそばにないので実感できない。それに「死」というものが最大の恐怖であるが故に、その事実から目をそむけている。

今ここでだ、金云々関係ないし自分のやりたいと思ったことをやる。それでまあ何とか生きていけそうなら生きる。駄目だったら死ぬ。結構極端な考えだけれども在りと言えばありなんじゃないかと思う。
辛い思いをしてまで生きることに魅力を感じない。むしろそれこそ惨めなんじゃないのかな。そこまでして生きることに執着は湧かないし、むしろやりきった感を感じられるんじゃないのかと思ったりする。
長生きしたくない人間にとっては、自分の生きる時間を定めて、その限られた時間内を精一杯生きるほうがだらだら生きるよりもはるかに充実した人生だったと思えるんじゃないのかな。

長生きすることが必ずしもいいことだとは僕は思わない。人生いつもいいことばかりではないので精神的苦痛画常伴う。体も衰え、病気にかかれば肉体的苦痛も伴ってくる。
以前から「長生きし気したくないと」と何回も書いている。くっちゃくちゃになって、病院のベッドの上に寝かされ、点滴だのなんだの管を繋がれ、無理に延命させられ苦しみながら最後死んで行くなんてとても嫌だ。安らかな死を迎えられる人なんてほとんどいないんじゃないと思ってる。あんなのドラマの世界の話だ。現実は、凄い形相で死んで行く人が多いと何度聞かされたことか。
ばあちゃんの死ぬ数十分前に病室に行ったけれども、そこには僕の知っているばあちゃんの面影はなく、くっちゃくちゃな顔になって呼吸も荒く、非常に苦しそうなばあちゃんの姿があった。ああ、人間こうなってしまうものなのかと。母親の時も僕は死に目に会えなかったのだが、親父曰く、「白目を向いた状態ですごかった」と。生きるとか死ぬとかて何なんだろうな。
そして生きるということは金がかかる。仮にだ、定年の65歳を迎え、80歳まで生きたとする。その間15年分賄えるだけの貯蓄はあるだろうか。年金なんてはっきり言ってあてにならない。これは今の老人達を基準に考えてはいけない。今の老人達は裕福な人が多いから何とかなっている。僕たちは今の老人達が受けるだけの恩恵を受られるとは思わない方がいい。何が起こるか分からないから、いざという時お金が必要なのだ。常にお金との不安を抱きながら生きて行くのは僕は嫌だ。

肌もまだ張りが残ってる、綺麗なうちにぽっくり逝きたい、これが僕の望みだ。
若い人で結構こういうあっさりした考えの人っているんじゃないのかなあ。実行するかしないかは別としてね。

一校目の結果

一校目の一次試験の合否が出た模様。結果は予想道理落ちていたという。特にショックはないのだが、その前に200人以上受けていたという事実にびっくりしたわw(倍率約5~6倍)。ここ数年の倍率の変化を見てても一番高かったんじゃないんだろうか。専門学校なんだから何とかなるだろうだなんて思っていた自分が甘すぎだったわけだな。

来年も恐らく受けると思う。あくまで恐らく。看護に以外にも視野を広げて行こうかなと思う。いや、もうそのつもりである。

焦りの源

昼間から友人とskypeでぐだぐだと話していたらいつのまにか夜になってしまった。彼も数ヶ月前に仕事を辞めているので求職中である。平日の昼間っからこんなことしてるんなんて、暇人そのもの。でも時間があるからこそ、できることなのである意味幸せなのかもしれない。
まあグダグダしている最中でも、頭の中では「今後どうすっかな・・・・」ということが頭から離れないわけなのだが。僕の悪いところは気持ちや思考のが切り替えが下手クソなところ。一つ気になることがあったら、その事ばかりで他に全く集中できなくなる。いくら考えたところですぐ解決するわけではないんだけどね。だからちょっと楽しいこと見つけたり、何かしたい事を考えたりする。

んー僕は焦っているのかな。そしてこの焦りははどこから来るんだろうか。おそらく「年齢」に対しての過剰なまでの意識、もう脅迫的なものだと思う。そうせざるを得ない社会構造だからなのかな。
「何かを始めることに年齢は関係ない」とよく聞く言葉。物事は早く始めるに越したことはないけれども、何歳から何を始めても別にかまわないと思う。趣味や習い事ならそれで何ら問題ない。しかし仕事となるとどうだろうか。前提としてこの国には年齢による「差別」と「偏見」が存在すると思う、いや、存在する。
まず更に歳を増すと極端に就職口がせまくなり、選択肢が少なくなる。新卒・既卒という概念があるように学校を出たばかりの人間をまとめて採用するのが日本式である。新卒ならば就職口は大きく開いているし、スキルがなくとも、たとえ馬鹿でも(面接のときに口が達者なら)大きな企業に入社することも可能性としては十分にある。しかしいざ既卒になった途端、実務経験とそれなりのスキルが求められるわけだ。入口にも立てないのにスキルは求められる。どうすればいいか分からず追い込まれるのである。未経験から採用してくれるも企業もちろんある。ただ、表には出さないが大体年齢でこちらをうかがう場合が多いのではないのか。「若ければ若いほうがいい」それが企業の本音だと思う。
転職においてもいくらスキルがあろうと年齢で容赦なく弾かれる。以前の職場で、30代後半のスキルを持った人達がやっぱりそうであった。良い求人があっても年齢制限に引っかかりなかなかうまく転職活動がいかない。だから会社に不満があっても今の会社に留まらざるを得ない状態・・・。「転職するなら35まで」誰が言った言葉なんだろうか。
それと大企業から中小企業に行くのは容易だがその逆は限りなく困難だ。待遇アップを目指して転職しようにも、なかなか難しく、むしろ転職したことで待遇が下がってしまったという場合もある。年功序列型の体形では、若いうちからその組織に属しているほうが給料体形でも有利だ。それに転職自体あまり好意的に見られていないし、先に言った年齢制限がる。
まああくまで企業勤めする場合であって、資格系の仕事や職人にはあまり関係のないことかもしれないけれども。

そてもうひとつ、日本には「年相応」という言葉がある。つまりその年齢にふさわしい身分であり行動をとることがよしとされているわけだ。じゃあそのふさわしい行動だのなんだのって誰が決めたんだろうか。恐らく皆が好きな「世間様(笑)」というやつだろう。まさに姿の見えないマニュアルである。何でも均一化、そして何かの規格にあてはめることが好きな民族なんだろう。
さて、ニュースを見たり読んだりしていると必ずと言っていいほど年齢と職業が記載される。

・「きしもとさん(25)無職」

この情報からどういう印象を抱くだろうか。大方の日本人は「25歳なのに無職なのかよ(笑)」と思うだろう。

・「きしもとさん(20)学生」

この情報からどういう印象を抱くだろうか。「ああ、学生さんか」で終わり、特に何とも思わないだろう。では、

・「きしもとさん(30)学生」

この情報からどういう印象を抱くだろうか。大方の日本人は「30歳なのにまだ学生やってんのかよ(笑)」と思うだろう。中には馬鹿にする人もいるはず。

これは明らかに偏見ではないのか(そう思うのは僕だけだろうか・・・・)。所謂、「年相応ではない」人間に対して非常に見る目が冷たいのである。
歳を増すと、いざ入口に立とうとしたとしても弾かれる。そして年相応という名の偏見の嵐。
これだけ年齢を意識せざるを得ないのは、儒教的思想が強すぎて、そういう社会の仕組みが出来上がってしまったからなんだろうけれども。
会社を辞めようと思った時点で、スキルもないし、だからと言って未経験から雇ってくれる会社なんて少ないし、その後キャリアアップも目指せるわけでもないし・・・と思いが強かった。そこで年齢問わず求人もあり、給与もある程度見込める、看護師という職が目に着いたのだったが・・・・・

若者

書こうと思っていたのに途中なまま放置して、そのままにしておいたので改めてかこうと。そんな記事がいくつあるのやら。
 先日(って言っても10日くらい前だけど)たまたまNHKで放送していた若者世代と大人達の討論番組を食い入るように見ていた。もちろん僕たちも年齢的には十分大人なのだが、ここで言う大人はおじさん・おばさんと言われる世代の事。一体何歳までが若者なんだろ(30代~40代って微妙だよな・・・・)
 見ていて思ったこと。僕と同じ世代・同じ若者でもここまでいろんな考え方や働き方があるのかと、その多様性に僕自身感心させられてしまった。ただ、おせじにも給与がいいわけでもなくむしろ低い。そして安定という面で欠ける。それでも彼らは充実している様にみえた。しかしながら、スタジオにいた大人達がもっともそのことに対して敏感に感じていたようにも見えた。「なんでそんな安定が保証されないな仕事をしているのか」「お金は大丈夫なのか」「将来不安じゃないのか」。こんな感じだっと思う。中には若者を分析・理解しようとしてくれている人もいたけれども、自分達の考えを全面的に出して、若者の考えを否定する、そんな大人のほうが多い気がした。若者と大人達との考え方との溝がここにあるようだった。僕はちょうど中間的な立場なのかな・・・・。都合がいいけど

 話は変わり、ある映画監督が言った「恐らく今の若い子たちは大人を信用していないんじゃないかと思う」という言葉がどうも印象に残っている。なんでだろう、僕自身も思い当たる節はある。
 まず、こんな日本社会を作り上げてきたことに対する不信感。今の日本は言うまでもなく先の大人達が作り上げてきたものであると思う。大人達は次世代に対して今まで何を考え何をしてくれたのだろうか。社会に対する不満、政治に対する不信。政治家が悪いだのとなんだのと言うのはは簡単だけれども、そんな政治家たちを選んだ有権者である大人達には全く責任がないと言えるのだろうか。
 そして大人達(にじいちゃんばあちゃん世代も含む)が受諾で来た豊かさを、自分達は受諾できないことへの不公平さに対するいら立ち。今の雇用にせよ、社会保障にせよ、上の世代の人間と比べたら明らかに状況は厳しい状況だ。負担の矛先はどこか、そう若者にしわ寄せが行っている。自分達の身分を崩したくない、損はしたくない。ある大人達の意味既得権益である。そんなことを知ってか知らずか、「自分達には関係ない」という顔をしている大人達はいないだろうか。
 さらに価値観の押し付けや若者が作り上げていく新しい価値観への否定に対する反発。歳をとれば、知識も経験も蓄えられる。酸いも甘いも知っている。しかしそれ故、思考の柔軟さに懸けるとも言える。「自分達はこうしてきたのだからお前たちもこうやれば大丈夫だという」時代背景を無視した成功論的体験を押しつける大人は一定数いると思う。一番身近なところではそれは親と子という関係で体験する人が多いかと思う。僕の家庭は放任主義だったので全くもってそんなことはなかったのだが。昔と今は全く状況が違うということをどれだけの大人が理解に努めているのか。
 若者屋価値観が全く分からなくても、それでも理解しよと努力してくれる大人達もいる。それは唯一の救いだと思う。新しいものを受け付けず、「今までのやり方でいい」「それが正しい」。こんな保守的な考え・価値観が蔓延したらもう終わりだと思う。もしあなたが組織に属している人ならばそう言った経験はあるかと思う。僕自身も感じていた。
 
 世代間での対立というのはどの時代でも起こる事だと思っている。大人達の経験、知識と若者の新しい発想・価値観がうまく組み合わさればいいのだが、それが上手いこといくならば苦労はしないな。
全く大人達を信用していないわけではない。でもね、若者のことをもっと知ってもらいたいと思う。



闇とともに

夜になるとどうしても心が落ち着かなくなる。日中はあんなにケロッとしていたのに。闇に包まれるとあたかも自分の心までが闇に包まれるような気がするのだ。この先のことを考えるとで不安でたまらない。そりゃそうだ、ばくだんかかえているのだから。
「今後をどうするか」
それを早くいち早く決めなければ次に進むことはできない。バイトしながら来年もう一度受験するか。それともここでガラッと切り替えて仕方なく就職活動をするか。今の気持ちとしては前者だけれども、来年受かるという保証はない。就職なら次につながるような職種を選ばなければいけない。ただ歳増しスキルなしの人間を未経験で雇ってくれるか。何するにせよすでに大きなリスクを抱えたままなわけだし、結局何の道を進むにせよそこには「後悔」というものは付き物なんだと思う。
こうやって藻掻いている間にも、僕の知らないところでは人生謳歌している人たちが大勢いるのだろう。このあまりにも対照的な事実を受けとめるというのは非常につらいことだ。知らなくていいこと・考えなくていい事まで全てノイズとして、頭の中に入ってくる。それはより一層自分をみじめにするだけだ。20代の貴重な時間を、そして若さをこんなに無駄にしている。振り返ると20代に突入してからの今日にいたるまでの数年間、自分が望んできたものって物質的なもの以外何一つ手に入らなかったと思う。これが現実なのか、自分の行動力・人としての魅力の無さだったのかな。

大学時代。就職しやすいと言われている理系学生であったにもかかわらず、その職種が嫌だと言って応募しなかった。変な夢を見みず、自分が無能であることを自覚して、大人しく自分の専攻を生かした職種に応募していれば、今の身分では入ることのできない会社にもしかしたら入れたかもしれない。今と違ってもっと楽しいことをしていたかもしれないし、お金を自由に使えていたかもしれない。仕事だって嫌々言っていたとしてもそれなりに経験を積めたはずだ。
でもこんなひん曲がった人間だから、自分が無能であることを理解しつつも結局、どこかで行き詰って今と同じ状態になっていたとも思う。
選択の余地がまだあったであろう中、こうなってしまたのは自分の「選択」による責任なのだ。自分の選択してきた結果が今の結果と言うだけのこと。こうなってしまっては、振り返っても仕方なく、何とか人生軌道修正するしかない。なんとか立て直すしかないのだ。そうしなければ、最後に待ち構えてるのは・・・・。

抜け殻

受験がとりあえず一段落段落してからというものの(まだ一日しか経ってないけども)完全に気が抜けてしまったのか、なんだか抜け殻状態。何と言うのかもう身が入らない。試験の出来の悪さに結構落ち込んでいて、更に今後のことで頭がいっぱい。
明日からセンター試験が始まるが、もう受ける気が全くない、というかかったるい。4か月前に「センターも受ける」と宣言しておき、ついこの間まで受けるつもりでいた。が、直前になってこのざまで、結局口だけになってしまった。そして2万近くの受験料をどぶに捨てた僕はクズなんだろうね。一ヶ月分の奨学金返済費と+携帯代に充てられたはず。4カ月で6科目は無理があったのは承知で、結局やりきれなかった。ただ、生物と倫理高校時代に学習しなかった科目を1から在る程度まで自主学習したことは無駄ではなかったと思うけれども。

今回今まで勉強してこなかったということが痛感できたわけで、僕の学力が現時点で相当低いということもよくわかった。来年の予定は・・・現時点では分からない。どうやら新課程になるそうだけども。
高校生、浪人生は是非頑張ってほしいと思う。受験失敗したとしても、年齢的にまだ10代後半~20歳くらいなんだからまだまだやり直せると思うよきっと。

ひとまず終わり

昨日に引き続き、今日は面接試験を朝一でしてきました。結論を言うと面接も壮大に爆死したという感じです。想定していた質問は一切されず、全く考えていなかった質問ばかり。もちろん頭の中で情報を整理しきれているはずもなく、全く思いつかない。かといって黙るわけにもいかないので、とっさに出た言葉が意図しないもばかり。
人って追い込まれたときに本当に思ってもいない言葉が反射的に出てくるから恐ろしい。質問に対して抽象的かつ、的外れな回答の連続をしてしまったので今思い出すだけでも出来の悪さに笑えてくるし、恥ずかしさのあまり心が痛くなるわけです。これ、頭が回る人だったらとっさに思いつくんだろうけれども、僕の様な頭の中すっからかんの馬鹿には全く思いつかないのです。
1校目の一次試験の合否は1週間後、2校目の合否は2週間後。とりあえずいろんな意味で終了したのでなんだか完全に抜け殻状態になってしまって全く身が入りません。マジで今後をどうするか・・・その心配ばかりで頭がいっぱいであります。

主観的な自分と客観的多自分

明日の面接のために想定されうる質問に対して何とか答えを考えているわけですが、自分がどういった人間であるのか今一度整理するのも楽な作業じゃないですね。
思うけれど、自分を客観的に観るって難しいというよりは無理なことだと思うんですよね。なんていうか客観的な自分って実は偶像でって主観的な自分が生みだした産物なんだと思うわけです。客観的な自分の正体は実は主観的な自分って事です。
例えば、自分の長所を探す上で、一旦自分というものを遠くから見つめると思うわけです。まあなんでもいいので、「行動力がある」とでもしておきましょう。
「僕の長所は行動力がある事です!」これが、客観的な自分だとおもいきや、「おいおい本当にそうなのかよ?」「無理やりそう思い込んでいるだけだろ?」などと、主観的な自分がすぐさま現れて茶々をいれてきます。そうなると客観的な自分は「お・・・・おう、そうだな」「確かに何か違うんだよね・・・」と認めます。(認めないかもしれません。)そして客観的な自分が「まあ他に考えられないから行動力のある人間で通してくれ」と指示を出し、客観的な自分は「あ、はい」と指示に従います。

何でもそうですが「主観的な自分」が「客観的な自分」という偶像を生み出しているにすぎないとおもうんです。主観的な自分には絶対的権力・感情があり、客観的自分は支配されていて、服従するしかないと思うのです。
自分の精神と肉体は離れないわけで、本当に遠くから自分を眺めることなんてできないし、そんでもって心は分離できないし、心の中に心は作れません。
書いていて自分でも何を言っているのか分からないけれど、自分という人間を見つめるのは難しいことだなあと。

2校目

本日2校目。昨日とは打って変わって、受検者が圧倒的に少なかったです。やっぱり県の中心都市と田舎の街にとでは、パイが違うわけですね。(受検者層もなんとなく違う気がする)
昨日何人受験していたのか正しい人数は分からないけれども、把握しているだけでの人数のおおよそ1/3くらい。それに加えて高校生以外の私服・スーツ組が半分くらいいたんじゃないのかというくらい。やっぱり皆考えることは一緒なんだなあと。
さて、肝心の試験結果は・・・・盛大に爆死いたしました。昨日と比べたら断然難しわ、時間が足りないわ・・・。踏んだり蹴ったりで、気付けば終わっていました。数学は別にどうでもいいとしても、国語の読解力の無さと、英語が全く読めない・分からないのは致命傷だな・・。
地元に帰ってきて最初の頃は「専門はとりあえず大丈夫だろう・・・・」なんて思っていたけれども、いざ受験会場に行きいざ試験問題を解くと、「勉強不足」ということが胸が痛むくらい思い知らされるわけです。とりあえず明日は面接。3日後のセンターも絶対アウトなので今更行こうかどうしようかと・・・・。

さて、まさかとは思ったけれども、来年の受験を含めてこの先の予定をどうするか検討しなくてはいけなくなりそうです。


1校目

今週は街に待った受験週間なわけですが、本日一校目の受験を受けてきました。正直なところ「あ、落ちたわw」という感じだったわけで今絶望感が半端ないです。電車に乗ってた高校生の子たちはなんだかケロッとしていてお友達と楽しそうにおしゃべりしていて、その横で「ああ、明日どうすっかな・・」と不安を抱いている25歳の男がいたわけですが。
なんだこの差は?
国語はまだ良しにしろ、英語が全然読めず、更に選択科目の生物で爆死。調子に乗らないで素直に数学を選択しておくべきだったと改めて後悔。センターと比べて簡単なんだろうし、現役の子たちは恐らくすらすら解いたに違いないと思う。ちなみに明らかに高校生以外の人も結構いたわけで(おじさんなんかもいたので)、僕以外にも同じこと考えている人達って結構いるんだなあと思ってしまったわけです。その人たちは今日の試験の感触はどんな感じだったんだろうか。
明日から2日間2校目の試験があるけれどもまあどうなることか。問題はやはり英語。単語が全く頭に入っていないからどうすればいいことやら。これ。受験失敗の可能性が濃厚になってきたわけです・・・。
それと太ったせいでスーツがパッツパツ状態。腹が・・・・とまあ試験の手ごたえと同じくらい絶望感を感じたわけです。

クソ時代の夜明け

2014年も気付けばもう3日過ぎ、今日が終わればもう4日・・・というように時間は残酷にも過ぎて行くばかりです。この不可逆的なものには一切逆らうことができないのが、非常に悔しいわけで、街で見るかわいい女の子を見るたびに、あの頃にもどれたらいいなと思うばかりですね。
さて、明けましておめでとうございます。

先日、高校時代の友人達と集まって飯を食べてきました。「勉強しなきゃいけないから今年は遊ぶのどうすっかな・・」なんて思ってたけど気付けば朝まで僕の家でゲームしていたという(笑)結局遊ぶ誘惑に勝てませんでした。まあでも1年にこうやって集まれる機会というのはお正月を含め数回程度なので良しとしましょう!
そして眠い目をこすりながら親戚の家にあいさつ。友人にも、親戚にも「太ったな」と言われました。見りゃわかるだろ!まだ頬がこけていた頃の僕を知り、この数年間の変化を見続けてきた友人は「人間というものはここまで変わってしまうものなのかと」と驚いていたようでした。なのでダイエットもしなくてはいけませんね。明日から本気出す!という人は凡人的思考で、本気で痩せたい人は宣言する前にとっとと始めているわけですが、そこができる人とできない人の違いなんでしょうね。でも寒くてなかなか外に出たくないのが本音です。

さて、今年で26歳になるわけですが、仕事を辞めたからにはまず残り2週間を切ってしまった受験をなんとかしたいところです。正直神頼みの要素がかなり大きいわけですが。
見事合格しても「やったー!」というわけではなく、むしろ苦労と困難への第一歩、始まりにすぎないわけです。そしてもし受験に失敗したらそれはそれで人生積むでしょうね・・・。まあ後悔しても仕方ないので、なるように身をゆだねようかと思うわけです。
というわけでこの先どうなるのか全く予想はできませんが、今年も破天荒?なこのブログをどうぞよろしくお願いいたします。
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