2013年のしめくくり

この一年というものは僕にとって非常に充実した年であり、そして未だにさまよい続けていると言った感じの年でした。
去年夏から20人もいない小さな職場で一年間勤務し続けてきましたが、特別なスキルがついたわけではないけれども、ここで体験して感じたことは僕にとっては今後の大きな秤になると思います。組織体制であり、教育の大切さであり、人間関係であったり、労働そのものであったり。そして自分のこれからの展望に対しての考え方に色々と刺激を与えてくれたのではないかと思います。そして僕自身はまだまだ未熟であるということも。だから勉強しなくてはいけないと思います。受験勉強はそういった意味でも普段勉強に向かう機会が少ない自分にとってクセ付けという意味ではいい薬なのかもしれません。
なんだか仕事や将来のことばかりであまり人生そのものを楽しんでいない様な気もします。
僕は今一番やりたい事はそうですね、旅をしたいです。3年前の北海道への旅を未だに忘れることができないし、あと「水曜どうでしょう」を改めて見て何か血が騒ぐのです。それに加え新しいことを始めたいなと。新しい出会いや自分にとっての居場所を作る意味でも。

そういえば、毎年のように「来年はいい年にしたい」だなんて思っているけれども、そうでなくて「幸福感」を感じることができるような過ごし方をこの1年したいと思う。受け身ではなくて自発的に思ってことはどんどんやってみる。つまんでみる。
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2013年の最後に書くことではないけど思うこと

仕事を辞めて早4ヶ月。1日経つのが相変わらず早いと感じる毎日、この時間的感覚って仕事をしていたころと比べてもさほど変わらないような気がします。やっぱり年令から来るものである意味宿命的なものかなとも。この数カ月、書きたくても、自分の考えをうまく言語化できずに何度も記事をおしゃかにしたかわかりませんが、最後ぐらいは何とかうまくまとめたいなあと思います。

最近よく思うこと。まず、「果たして自分はどこへ向かっているんだろう」ということ。最近というよりかは、いつもかもしれない。友人達を含め、周りの人間はこの歳にもなれば仕事をし、稼いだお金で好きなものを買ったり好きなことをしたりと思いのほか楽しんでいると思う。そして結婚してもなんらおかしくない年齢でもあり、色々な形で人生の節目を迎える人も多数出てくる。知らない間に昔度同級生が結婚していたりとか。
そんな中、僕は周りの人間とは全く正反対の道を歩んでる。本来ならば自由に使えるはずだったお金もをこつこつ貯めてきた。それは「いざ自分が進む道が新たに決まったときのために」という思いで最初から決めていた事だし、これでよかったと思っているし、今後のことを考えれば無駄ではないはずである。遠回りしているということで、大学時代の貴重な数年間という時間と投資してもらった金を非常に無駄にしてしまったことにもなるので、自分への戒めのためにもこの金を無駄にはしたくはない。
しかし、金をある程度自由に使えなくなると色々な面で制限をしなければならず、当然働いている人間たちとの感覚と違ってくるわけでまあ辛い面でもある。残りの生活費としての貯金は日に日に減っていく一方。
そう考えると「自分はいったい何をしているんだろうか」と思えて来ることが多々ある。ある意味では、金のない今の僕はみじめな立場かもしれない。資本主義社会を生き抜くためにはどうしてもお金は必要不可欠なのだ。歳をとっても金がないのは非常にみじめである。そのまま辞めず我慢して働きづつけていたら、今後数年間で稼げたであろう分のお金を得ることができた。確実に1000万近くの金を損をしていることになる。ただ僕にとってはそれは目先のお金だ。だからスキル的にも金額的にも見返りがあると確信してこの道を選んだわけだから、悔いてはだめだ。まあ仕事も辞めただけあって目的を果たすためにもまずは何とか合格しなくてはならない。ただ勉強もモチベーションを保つのが非常に難しい。やるときとやらない時の差が激しい上に、減っていく時間に対して焦燥感から心が落ちつかず集中できなくなる。
改めて専門学校の過去の倍率を見ると倍率2~3倍ということなのでこれって大丈夫なのかなと。筆記よりも面接のウエイトが高いので、いくら筆記を頑張ったところで面接で失敗という可能性は大いにある。そうすれば即おしまいなわけで、今まで何してたんだろうということにもなりかねない。まあこればっかりは運というもにゆだねるしかないかなと。
失敗したら翌年の受験をするかどうするか、その間どういうふうに過ごすかそのあありも考えて行かなくていけないわけだ。

次に思うこと。
僕は歳をとることが非常に脅威であり恐怖でもある。つまり「若さ」を失っていく事。
まず見た目であったり体力であったり、目に見えるものとしてはっきり現れる。鏡の前で自分の顔を見つめれば数年前と比べて明らかに老けたとと思うし、体力だってこれからどんどん衰えて行く。これからそれらが顕著に表れて行くということが僕にとって非常に恐怖である。「自分はもう若くないんだ・・・」と。あと5年もすれば30歳、決して「若いです!」とは言えなくなったり思えなくなる歳。
次に20代前半の感覚と20代半ばの折り返しの今の心境では全くと言っていいほど違う。何か目には見えないはっきりとした重み、そう社会的な立場。そして周りの目も厳しくなる。友人や同世代は今まで外向きであったのがだんだんと内向き志向になっていくわけだ。結婚して家庭を持つのがその例。自分が自分の共同体を作らねばどんどん外から疎外さて行く、そう感じる日は刻々と迫っている。実際、今そう感じているじぶんがいる。
そして自分が老いて行くは周りの人間も同じだけ老いて行く。自然に死んでいく者も増えて行くのは明らかであって自分の周りからどんどん人がいなくなっていくわけである。
若さを失うことは肉体的にも精神的に非常に大きな影響や変化をもたらす。だからなんだ?というわけですが、なかなかこの先に関してのことはうまく言語化できないわけです。
あえて言うならば「これからもっと多くのものを得て行く」と思っていること自体実は錯覚であって、本当は「これから多くのものを失っていく」んだと思います。意識しないだけでないだけであって本当はこうなのかもしれません。
とりあえずこのへんんで。

25年と7ヵ月

僕は何か大事なものを見失っているような気がしてなりません。
何が好きで何がしたいのかよくわかりません。
先のことを考えているようで考えているような気がします。
僕は後退していているような、そして周りの人がなぜか進んでいるように見えます。
比べてはいけないと思っても比べてしまいます。
自分の為の生きているはずが人に見せる為に生きているような気がします。
何をすれば満足できるのか分かりません。
僕に足りないもの、たくさんありますがよくわかりません。
考えれば考えるほど怖くなってきます。
そして今生きていることに不安を感じます。
そうなると心が押しつぶされそうになってふと、死にたくなります。
だから自分の中で、こんな弱い人間だからこそ揺るがない強い信念と絶対的な思想・哲学が必要な気がします。
たとえ他人からどう見られようが思われようが「自分は自分だ」と思える強い人間に僕はになりたいのです。

12月も半ば

なんだかんだで気がつけばもう12月も半ばを過ぎてしまったなあという次第です。買い物から帰る途中、サンタの格好をしたピザ屋の配達店員を見かけ、もうそんな時期なんだなあと実感する。スーパーでもなんだかお祭りの様に商品が飾ってあったり、セールをしている。ちらほら正月の匂いもしてきたところ。
いよいよセンター試験まで1ヶ月ちょっと、専門の方は1ヶ月を切っている。僕も追い込まれてきているわけだけれどもその割には勉強は相変わらず。毎日「明日から本気出す」。最近ようやく過去問を解き始めたのはいいけれども正解率が低すぎてワロタ。マークシートだから最悪分からないとこは感で何とかるだろうっていうのはかなり甘い巻あげだなあと思った。英語も単語力不足だなということを改めて実感する。その上文法がちんぷんかんぷん。でも勉強しながら思うのだけれども、ネイティブはこんなアホみたいに細かな規則をいちいち使い分けているわけないよなということ。学校英語の文法は機械的規則の集積ってどっかの本で批判されているけれども。
それと国語はどうすればいいものなんだろうか。200点という配点が大きすぎるのだけれども全く手がつけれれない。昔からそうだけれども国語が大嫌いだ。中学の時も高校の時も、テスト勉強で国語に費やした割合が一番低いもしくはノー勉状態だったと思う。文法は特に中学のころから分からなくなって今でもよくわかっていない。それに僕の中で筆者や登場人物のの気持ちや考えをいちいち答えるということもどうやら苦手だったみたい。僕の国語能力が低いのはやはり国語を勉強してこなかったからなのかな・・・。

それと先日、数日間悩んだ上にようやく1校目の看護学校の志望動機を書きあげた。うまくまとまっているなあと思ったら案外お粗末な内容になってしまったんだけれども。それも「志望動機」になっていないというね。2校目もそろそろ書いて提出しなければならない。
就職活動の時もそうだったけれども志望動機なんてホント人それぞれ。ありきたりと言われようが何と言われようが人によって違うのは当たり前だ。大した理由なんてない人がほとんどだと思っている。けれども建て前と本音を使い分けなければいけないもどかしさ・・・。まあ試験だから仕方ないとしても。しかし履歴書だろうが願書だろうが、写真は不必要だと思う。年齢欄もいらない。手書きじゃなくてパソコンで作成させてほしいし、指定フォーマットも勝手が悪い。海外にからみたら日本式の履歴書は差別を助長しているものなんだろうか。

記憶の片隅に

よく自分の存在が皆の記憶からからだんだんと薄れて行ってしまうことが妙に怖かった。学校を卒業するたびに今までそこに存在していたものはきれいさっぱりなくなり、またそこで新しいものを構築しなければならない。自分の安心できるお城を必死で築いていくうちに今に囚われ、昔の記憶なんてだんだんと薄れて行ってしまう。
僕の中で中学卒業後、中学校の同級生たちに対してそういう思いが強かったと思う。
小学校から殆ど同じ、そして思春期という複雑な感情が入り乱れていた時期。そしてまだ10代半ばという狭い世界でしか生きてなかった僕にとって、それが人間関係のすべてであったから高校進学に伴い皆ばらばらになっていくのはなんだか複雑だったのかな。高校時代使っていた携帯を覗くと、どうやら受験前に皆に頑張れメールを送っていたようだった(笑)今思うと「若いなー」なんて思うけど当時は自分の存在をどこか残しておきたかったのかもしれない。大学生のころも、皆何しているんだろうかってよく思っていた。成人式があって同窓会があって皆久しぶりに集まって昔のようにわいわいと盛り上がったけれども、でももう何か違う感じがしていた。
SNSが一気に普及してネット上で昔の同級生と簡単にやり取りができるようになったけれども、やっぱりそこに感じるのはあくまで「昔の友人」なんだということ。職場の人、大学時代の友人、高校時代の友人・・・・今ある人間関係が優先されるのは仕方ないと思う。
自分を取り巻く環境や人間関係が変わっていくたびに、「僕」という存在は今まで関わってきた人たちの記憶の奥底に埋もれて行っていくんだろう。20代半ば、これからもっといろんな人間関係を築いて行くうちにどんどん皆の記憶から薄れて行くに違いない。けれどもう寂しくはないかな。いっそのこと僕は皆の記憶から抹消してほしいなと。

こんなこと思ってしまうのも僕が人間関係を構築していくこと、関係を保つことがが下手だからなんじゃないかって思う。
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