深く考えること

病気で亡くなったり事故で亡くなったりした人には「可愛そう」と同情をする。
電車に飛び込んで亡くなった方には「迷惑」「ふざけんな」。しまいには「死ぬなら迷惑かけずに死んでください」
本当にあきれてしまうし悲しい。
もし同じ尊い「命」と考える事ができるのであればそのような事は簡単に口に出すべきではないし、そのような考えはあまりに短絡的ではないのか?と僕は思うのだ。

鉄道を止めてしまう行為は確かに多大な損害を与えるし多くの人に迷惑をかけるのは事実だ。それは分かるがそれよりも自ら飛び込んで人が死んだという事実がある。考えるべきはそこじゃないのか?毎日のよう誰かがに飛び込んでいる現在の状況。絶望のなか死んでいった人たちは何を思っていたのか、家族がいたかもしれない、友人がいたかもしれない、恋人がいたかもしれない。まだまだ生きたかったかもしれない。それでも死んでいったわけだ。失業、就職失敗、生活苦、借金苦、いじめ、失恋。死んでいく人それぞれ事情は違うとは思うのだけれども、突き止めていけばきとめて行くと個人の問題だけではなくて社会的な社会的原因だと根本にあるはずだと。話が広がってしまうけれども、飛び込みにかかわらず自殺は今の日本が抱えている問題が集約されているんじゃないのかなあと思うのです。
それと、決して表面的な事だけ(感情論)で短絡的なことを言うのではなくて、その事象からどんな問題があるのか、根本的なこと「考えていく事」は今の日本人、特に若い人たちにとって必要なことなんじゃないかな。
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なんとなくでも

ポジティブに物事を考えようとしていたここにきたのに、なんだか急に怖くなってしまった。一度考え出してしまうとまるで磁石のように次々と不安を引き寄せてしまい、気持ちが一気に落ち込む。どこかで割り切らないと気持ちが落ち着かない。
「何で看護師なのか?」ずっと問いただしてきたこと。未だに自信を持って言える答えを出せない。
働くだけならば別にこの職じゃなくてもいい。「生きていくため」「食うため」、働く根本はここにあると思う。正直職種にこだわる理由なんかない。やりたい事はあるか?いやない。あるとすれば現実味のないものばかり。学もない。ならば現実的な職、自分ができそうな範囲で望めそうな事を考えればと必然的に選択肢が狭まってくる。医療職といえど別に他にもあるだろう。理系出身んだから放射線技師や工学技士という選択もある。むしろそっちの方が合っているようにも見える。だから何でなんだろうな。金の件ももちろんある。

無理にでも、あたかも正当な理由を探そうとする。無理矢理過去と結び付けようとする。無理矢理作り上げようとする。本音とは別。いかにもらしい、嘘で塗り固められた志望動機が出来上がる。皆本当はこういいたいと思う。「なんとなく」「食べてく為」。面接では受かるために演じないといけない。不自然な解答になってしまうんじゃないだろうか。1月の試験の日にはこう聞かれるだろう。「なんで看護師を目指そうとしたんですか?」

僕の選択はのちの人生に大きな影響を与える。今までどーんと構えていたはずなのに、いざ改めて向き合うとびくびくしている自分がいるわけで。「本当にこれでいいの?」「本当にこの道に進んでいいの?」
「他もっともいい道があるんじゃないか?」そう考えれば考えるほど深みにはまると今度は抜け出せなくなる。やっぱりどこかで割り切らなければいけない。「これでいいのかな?」。

人生回り道をしてもいいと思う。けどできれば無駄な時間を送りたくないなと、その気持ちがやっぱり強い。
受験に失敗したらどうしようか。真剣に考えるなら万が一落ちた時のことも考えなくてはならないかもしれない。翌年歳受験か。その間どうしようか。
残り約2カ月というのに身が入らずここ一週間は勉強をさぼってのんびりしていた。今日ようやくやる気が戻ってきたのだが。

それにしても寒くなってきたな。秋はどこへいったのか、もう冬かなんだな。日中の見あげる空が輝かしくもどこか寂しい。

形あるものは次第に・・・

昨日親父がなくなってから処分せずに取っておいた書類整理関係を改めて整理していた。僕には全くの無関係な書類ばかり。もう必要ないとひたすら破り捨てる。そこでみつけたの父親にとっての最後の確定申告書。驚いたことに所得額が去年の僕の所得額とさして変わらなかった。それとこのとき廃業を申告していしていた事。亡くなったと同時に廃業になったのかと思っていたらこのときすでに駄目だったのかと。僕が生まれる前年度あたりから中学生になる手前ぐらいの確定申告書もたまたま残っていた。じいちゃんまだ現役だったこのころ。改めて見ると、このときはまだ儲かっていたんだなあと(そう見えただけかもしれない)。なんだか時代の流れがやけに残酷に見えた。
母親の闘病関連の書類も取っておいた。残っていた診断所を初めて?ちゃんと見たけれども初診から約8ヵ月で逝ってしまったんだなあと。平成18年というのがなんか遠く昔の事のよう。まだあの頃のことは記憶に残っているけれども、この記憶もだんだんと薄れてて行くんだろうな。

時間ってホント残酷だなあ。気がついけば今まであったものが皆なくなっているのだから。
唯一残っている書類。よくわからないけど残っていてよかったなあと思う。

SNSから足を洗う

最近になってようやくfacebookのアカウントを抹消した。何回か削除しようと試みたけれど、「やっぱキャンセル!」という感じが続いた。まあ最終的に踏ん切りがついたのは、「知っている人間同士、ネットの世界でまで絡みたいか」と自分に改めて問いただした時に「いいえ、したくありません」と心の底から思ったから。
「○○したよ!」とか「私こんなにもしあわせ!」アピールばかりで特に面白い内容など一つもない。大概が知らないほうが良かった情報であったりする。それ見るたびに落ち込んだりイラッとするのだが、でもどこか「怖いもの見たさ」の様なくだらない欲望があり、そのせいでアカウント削除を渋っていたわけだけども。ただやっぱり疲れてしまうね。結局のところ、知っている人間同士の日常を共有したところでなんも面白くないということだった。それに言いたい事もはっきり言える場でもない。常に不自然なほどのポジティブさで溢れてていて、なんだか奇妙な空気がSNSの中で渦巻いていて居心地は悪い。「友人の数、それ本当に友人なのか?」「そこのコメント、上っ面のコミュニケーションをとってるだけじゃないの?」気を使ってるんだか使ってないんだかはよくわからない。
まあ利用してみて良かった点といえば連絡先知らなかった友人と連絡がついたことくらい。それと「誰だれと誰だれって仲良かったんだ~」という意外な人間関係だったり、ネット上での性格だとかを知れたことかな。人間関係がそのまま表れてしまうのもおもしろかった。(たとえばコメント数だとか内容だとか)非リア充はネットの中でも非リア充なんだとよくわかりました。

しっかし利用する上で不安な事はやっぱり個人情報の扱い。以前にも書いたけれども名前+写真+所属のうち2つわかれば個人なんて特定できてしまうし、案外見落としている人が多いと思うけれども友人を介しての情報バレ。
facebookに限って言えば「皆実名だから」「皆自分の写真を乗っけているから」という安心しきっている人が多いんじゃないかと見ていて非常に思うのね。いくら公開制限ができるといえど、そんな個人情報晒していいのかよ・・・と詰めが甘いなあと(さすがに僕は皆のようにドヤ顔プロフ写真を堂々と載せる勇気など全くない)。まあ意図があって(利益やメリットがある場合もあるので)あえて自分の情報を晒している人もいるけれどもそれはそれでいいと思う。
それと僕が気になったのが写真のアップロード、そしてタグ付け。勝手に写真をアップされた上にタグ付けまでされたらたまったもんじゃない。最近の事件事故のニュースを見てても、加害者・被害者の写真のほとんどはSNSから写真引っ張り出される可能性が高いはず(twitterもそうだけれども)。なのでいくら友人間としても不用意に写真を晒してほしくないもの。載せるならせめて許可とるか、モザイク処理しろよと僕なら思うわけです。もちろん公開制限もかけて。
これだけネット世界と現実世界が結びつくようになってしまった時代も末恐ろしいですね。誰が見ているか分からない世界なだけに安易に自分を晒さないほうがいいわけで。まあこれは僕にもいえることなんだけれどもw
大人ですらこんな状態なんで、小さいころからネット世界に触れている10代の子たちなんてネットリテラシーはないも同然の人間が大多数じゃないかと。
じゃあネットリテラシーって教育すれば必ず見に着くモノなのかといえば必ずしもそう言うわけでも無いと思うわけで、やっていくうちに「これはまずいな」って尺度・感覚に気付くはずじゃないかなと思うんですね。まともな神経ならばね。

まあ利用するもしないも個人の自由だけれども僕にはやっぱり合わないなぁと。ブログやtwitterでひっそりとしたネットライフを楽しむのが一番合っているかな。とりあえずリアルな人間関係をネット世界にまで持ち込むのは疲れるということです。
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