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希望の種

長生きしたくないのは本当に思っている。けれども死ぬだけの決意も立ち上がれないほどの絶望の経験もまだないし、そもそも「死」が怖い。だから今もこうやっていつもと変わらず生き続けているわけだ。ただ、生きるからにはやはり何か希望がほしい。そこで大きな目標や目的を持つことが、一つの希望になり得るんじゃないかなと思ってる。
僕にとってのそれが海外移住である。(正直職の方向が定まってから言うべきことなのかもしれないけれども。)
以前から関心があり、もしかしたらできるんじゃないかと、そんな事を考えていた。からである。ここ数年、日本に対しての不信を抱くようになった。今まで当たり前だと思っていた事に対して非常に疑問を感じるようになり、考えれば考えるほどどこか息苦しさを感じるし、どうも悪いことが目についてしまう。特に労働環境と労働に対する考え方に対する不満も大きい。
日本は素晴らしい国だというけど、果たして本当にそうなんだろうか。海外に出たこともないし住んだこともないので僕はよくわからない。比較対象がないからだ。もちろんどの国でも良い面悪い面両方存在するとは思う。自分の理想とする楽園なんてものは存在しない。だから自分で確かめてみたいわけでもある。他人が海外より日本のほうがいいと思っても、僕はどう思う感なんてのは実際自分で感じてみないとわからないのである。

調べていると現時点でオーストラリアという国が一番いいのではないかと考えている(オーストラリア以外は厳しそう)移民国家であり、気候的にもよかろうと。そしてなによりもビザなのだ。どの国もスポンサービザを取るのが非常に難しいとの事らしいのだが、スポンサーのいらない独立技術ビザと言うものが存在する。 Skilled Occupation Listに記載されている職業ならば十分ビザがとれる可能性がある。所謂「手に職」系の職種だ。ただ、移民法の改正でリストから外される職業もあるわけなんだけど。
僕が看護師を選んだのもいざとなれば海外でも働ける職であったからというのがある。あるブログで同じことを実行しようとしている先駆者がいるのでとりあえずモデルがあるのがありがたい。ただ、正直言えば看護師なんぞやりたくないのが本音だ。前にも書いたがあくまで職業としての選んだだけであって心からやりたくて選んだわけではない。ただオーストラリアと日本では考え方が違うと思うので日本の労働環境よりかはましなんだろうとは思っている。
受験に失敗してしまった今、職業をどうするか再び検討しているわけなんだけど、SOLに記載されている職業をどこか意識してる。看護師にしても何ししても、国家資格が必要な職業はまず学校に入らなければいけないわけで、入試を突破しないとスタートラインにも立つことすらできない。なので、看護師一本でまた来年受験に失敗したら・・・・と考えるとやはり視野を広くしておくべきなのかと思う。せっかく学んだ電気系の職をもう一度考えるという手もある(本当は嫌だが)。学校に通わず就職して実務経験積む方法もあるわけで、それならば学校3年行く間に3年分の実務経験が積める。ただ、未経験から雇ってくれるかどうかなのだ。そうも考えつつ、あまり意識しないで自分のやりたいなあと思えた仕事をやるという手もある。これも雇ってくれるかどうかわからないけれども。

まあいずれにせよ、オーストラリアで働くことを目的とするならば
・国内での実務経験を積むこと
・英語を勉強すること(IELTSで求められるスコアをとること)
・資金を確保すること(免許によって向こうの大学もしくは専門学校で学ぶ必要があるので)
が必要必要なわけで、実行するなら早くから事を進めるに越したことはない。
まずは職の方向を決めることなんだ。だから悩んでるんだよね。



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極端だとしても

自分が人間として唯一分かってることと言えば確実に死に向かってることぐらい。この世に生まれたものは必ず死ぬ運命なのである。それが遅かれ早かれという話。「死」というものがいつもそばにないので実感できない。それに「死」というものが最大の恐怖であるが故に、その事実から目をそむけている。

今ここでだ、金云々関係ないし自分のやりたいと思ったことをやる。それでまあ何とか生きていけそうなら生きる。駄目だったら死ぬ。結構極端な考えだけれども在りと言えばありなんじゃないかと思う。
辛い思いをしてまで生きることに魅力を感じない。むしろそれこそ惨めなんじゃないのかな。そこまでして生きることに執着は湧かないし、むしろやりきった感を感じられるんじゃないのかと思ったりする。
長生きしたくない人間にとっては、自分の生きる時間を定めて、その限られた時間内を精一杯生きるほうがだらだら生きるよりもはるかに充実した人生だったと思えるんじゃないのかな。

長生きすることが必ずしもいいことだとは僕は思わない。人生いつもいいことばかりではないので精神的苦痛画常伴う。体も衰え、病気にかかれば肉体的苦痛も伴ってくる。
以前から「長生きし気したくないと」と何回も書いている。くっちゃくちゃになって、病院のベッドの上に寝かされ、点滴だのなんだの管を繋がれ、無理に延命させられ苦しみながら最後死んで行くなんてとても嫌だ。安らかな死を迎えられる人なんてほとんどいないんじゃないと思ってる。あんなのドラマの世界の話だ。現実は、凄い形相で死んで行く人が多いと何度聞かされたことか。
ばあちゃんの死ぬ数十分前に病室に行ったけれども、そこには僕の知っているばあちゃんの面影はなく、くっちゃくちゃな顔になって呼吸も荒く、非常に苦しそうなばあちゃんの姿があった。ああ、人間こうなってしまうものなのかと。母親の時も僕は死に目に会えなかったのだが、親父曰く、「白目を向いた状態ですごかった」と。生きるとか死ぬとかて何なんだろうな。
そして生きるということは金がかかる。仮にだ、定年の65歳を迎え、80歳まで生きたとする。その間15年分賄えるだけの貯蓄はあるだろうか。年金なんてはっきり言ってあてにならない。これは今の老人達を基準に考えてはいけない。今の老人達は裕福な人が多いから何とかなっている。僕たちは今の老人達が受けるだけの恩恵を受られるとは思わない方がいい。何が起こるか分からないから、いざという時お金が必要なのだ。常にお金との不安を抱きながら生きて行くのは僕は嫌だ。

肌もまだ張りが残ってる、綺麗なうちにぽっくり逝きたい、これが僕の望みだ。
若い人で結構こういうあっさりした考えの人っているんじゃないのかなあ。実行するかしないかは別としてね。

20代の折り返し地点で思うこと

ワタミ 「25歳までに頑張れなかった人は人生取り返しがつかない」

今までストレートに生きてきた人間、とんとん拍子に人生進んでいる人間からしたら僕という存在は異端児だと思う。引きこもり(留年)、就職失敗、転職。彼らは僕を笑うだろうか。下の世代からしたら「だせー」とか「こんな人になりたくないな」そう思われるかもしれない。
25歳。その数字が大きくのしかかる。正直思いは複雑。高校を卒業して早7年。同じ工業高校を卒業して、すぐ就職して行った友人たちはすでに6年目のキャリアを積み、今年で7年目となる。大学をストレートに卒業して働いていれば今年で3年目。大学院卒ならば今年から。これから徐々にキャリアを積み上げていくことだろう。僕はこの歳になり、そこまで働いたという実績はない。ましてやこの歳で違う職業、そのための学生になろうとしている。どう見ても普通の人(先に書いた人たち)たちからしたら異端児だ。
それでもいい。この先の事を思えば今の状況からしたらそれが自分にとっての最善策だと思ったから。親戚や昔から僕を知っている大人たちは心配してくれている。でも心配しなくても、どうなっても僕の人生だ。たとえ死んでしまったとしても。
もし自分が15歳の中3であれば仮に大学まで行き、働くまで残り7年、18歳の高3であれば4年もある。色々考える時間、猶予はあるのだ。早くからその道を志しているならばそれに越したことはないと思う。金がある家ならば本人の頑張り次第でいくらでも投資してもらえる。金がなければそれすらできない。そこはいたしかたない事。
今文通をしている相手の一人に15歳の子がいる。その子は医者になろうという高い目標があると言っていた。年の割にしっかりと文面でこちらが驚いたほど、もしも僕が同じ年だったらこんな文章は書けないだろう。志した高く、しっかりとした人間もいるのだ。年齢は関係ない。僕もその頃やりたい仕事があったな。でも現実は違ったけど。

大人たちはやりたい仕事、なりたい職業を探せとせかす。そんなもの分かるわけがない。この歳になってもそんなものよくわからない。ましてや10代の人間に言ったところで。自分の経験、そして小さな脳味噌を振り絞ってもそんなもの分からない。そして考えなんて成長するたびに変わる。自分を取り巻く環境や経験で変わる。昔描いていた夢はどんだけ浅はかであったか、いつかは現実という壁に打ち砕かれる。
「あの有名な企業に行きたーい」そう思うのは勝手だ。そう願ったところで容姿、学歴、コネ、ましてや何万といる学生と勝負しなければいけない。その中で選ばれた一部の人間が笑っていられるのだ。凡人、そう言う人のほうが圧倒的に多い。採用試験に落ちたなんてどうってことない。それで人生決まるならばそんな滑稽話はないと思う。失敗したら次の道を探せ、ただそれだけのこと。
大企業に受かる方法を模索している暇があるならば、今後どういう生き方をしていきたいのか考えたほうがそっちのほうが大事だと僕は思う。

25歳にもなると仕事のことや、もっと先のこと、そう結婚のことを意識するはずだ。すでに結婚した友人もいるわけで、昔好きだった子もいずれ結婚するんだろう。周りが大人の階段を順調に登っていく中で僕はまた一からやり直す。みじめなきもち?そりゃそうかもしれない。でも周りはそこまで僕の人生など気にしてはいない。多少心配はしてくれるだろうけども。
まとまりのない文章だけれども、どこかで躓いたりくじけたりそんな人間がいたら、僕の様なクソでも何とか生きているということで元気を出してもらえたらと思う。肩書きなんて所詮「肩書き」なんだから。あなたは「あなた」なのです。酒を飲むとよつい感情的な文章になってしまうのだが、まあ僕の様な20代半ばの人間でも別に今までどおりの、親たち世代から引き継いでいる所謂「昭和的価値観を」脱却してもいいと思うのです。ストレートに生きなくたっていい、躓いたっていい、遠回りしたっていい。そこに批判などあろうものならその人はそれだけの狭い価値観でしか生きていないつまらない人間だと僕は思うのです。自己正当化かもしれないけど、みんな似通った、一つの道がよいとされている日本で、いろんな道・いろんな生き方があったって言いと思うのですよ。多様性というのだろうか。悪いことをしているわけでもあるまいし。最終的にはその人が幸せになればいいのですから。

これから迎える未来へ

今日テレビを見て知ったのだが、台風の影響が思った以上に凄かったこと。特に京都周辺はひどかったらしいね。僕の住んでいるところではそんなに大した被害は出ていないようだけれども、豊橋、浜松方面は映像を見る限りどうもすごかったようだった。
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夜おばあちゃんちから帰ってくると、センター試験の案内が早速届いていた。昨日請求したのに今日届くとか早すぎるよなぁ。子の案内、手数料を含め、約300円。高いのか安いのか。
僕は高校、そして大学ともに、ちゃんと受験勉強をしたことがない。なので学力は当然低い。それなのに大学生になってしまったこと恥ずかしく思う。センター試験は今回が生まれて初めて受けるわけである。大体の人が通ってきた道、自分がどれだけ点数を取れるのか試したい気持ちがどうも強い。
5教科6科目。今年から受験校の受験科目が変更になった。国公立大学を受ける現役生はよくそんなたくさんの科目を効率よく勉強できるなと感心してしまう。残り4カ月弱。全然勉強が進んでいない。正直時間が足りない。(ブログを更新している暇があったら勉強しろや!)本命は専門学校だ。筆記試験はセンター入試ほど学力は必要とされていない。けれどそれ以上に勉強をする。けれども正直大学は受かればいいなと甘えている自分がいるのは否めない。学費なりのお金の問題ははひとまず置いておいて、とりあえずは、やれることはやろう。ただそれだけだ。

さて、今日のDARKNESSの記事を読んで。
今日はおじいちゃんのいる介護施設へ洗濯ものを届けに行ってきた。
僕のおばあちゃんは足が悪く、介護施設まで行くのも容易ではない。なので原付がある僕を頼る。おばあちゃんが行けば片道1時間以上のところを僕が行けば10分程度。
数年前まで元気だったじいちゃんも、脳梗塞になって半身が麻痺し、病院、介護施設での生活になってからだいぶやせ細ってしまい、老いたのを実感する。前にも書いたが介護施設に行くのはあまり好きではない。車椅子に乗ってる老人達の姿が寂しそうなどうも心苦しい。たまにしか来ない身内を今かと待ちわびているのか、それともそんな寂しさはないのか僕にはわからない。本当は自分の家で家族と暮らしたいんだと思う。それができないからここにいるわけで。もしかしたら厄介者として入れられているのかもしれない。悪く言えば現代の姥捨て山。だが家にいる家族にも生活はある。家で、家族内で介護ができるならば苦労はしない。介護疲れで殺してしまうという事件をしばしよ聞くぐらい、それだけ人を看るというのは大変労力がいることなんだと思う。だから、何とも言えないのだ。
僕が長生きしたくない理由の一つとしてここにある光景が数十年後の自分の姿かもしれないからだ。いや、施設に入れている人たちはまだましかもしれない。金があるから。
もし一人身の老人となってしまったらどう生きていけばいいのか。誰にも見つからずひっそり死んでいってしまうんだろう。ばあちゃんもじいちゃんがこんな状態だから一人暮らしの身である。だらしない僕に世話が焼けると思いつつも僕が行くだけで話し相手にもなるし、誰かいる安心感はあると思う。

都会ではまったく感じないが地方に来ればわかる。街の衰退と老人の多さに。この国に明るい未来があるかと言えば・・・それはNOだろう。このまま沈みゆく国でどんな未来が待っているのか。
老いて身体の自由も奪われ、自身の回りの事もできず、厄介ものにされ、一人寂しく、ぽつんと施設で一生を終えるのか。それとも身寄りもいないまま、部屋で孤独死するのか。想像するのが非常に怖い。

7年の歳月

先ほど姉とリビングでテレビを見ていたときに気がついた。「今日はお母の命日じゃん」と。
母親、ぼくはお母(おかあ)と呼んでいた。今年でなくなってから7年が経つ。小学1年生だった子供が中学1年生になるくらいの時の流れだ。あれから僕は成長したんだろうか。高3だったまだ少年は立派に育ったのか。
記憶があいまいだが、ちょっと書いてみようかと思う。
2005年、高2の時だっただろうか。母親にがんが見つかった。子宮頸癌から始まり、気がつけばがん細胞が全身に転移、ステージ4の末期という絶望の状態。そういえば「肩にしこりみたいなものがある」そんなことを言っていたなと。まさかその頃にすでに体がそれほど蝕まれていたとは知る由もなかった。
しばらく地元のがんセンターへと入院することになり長い闘病生活が始まった。入院して間もないころだろうか、その間僕は修学旅行へと行ってきた。それから家似帰宅すると、お母が帰ってきていた。あんなに元気だった母親がこれまで見たことがないほど弱弱しくなり、嘘のように痩せていた。その姿にさすがの僕もショックで涙をこらえることができなかった。あの衝撃といったらなんだったというのか。
それから病院、そしておばあちゃんち(お母の実家)に行ったり来たりを繰り返していた。部活が休みだったり、春休みの練習の帰りに病院へ寄ったり。今思えばもっと行けばよかたっと思っている。行ったら行ったでよく「帰れ」と言われたっけ。食べたくても思うように食べれず、残ったものを母親の目の前で僕が食べる。たいそう憎らしかったに違いない。「帰れ」、そう言われるのが結構ショックだったりしたなあと。
抗がん剤の副作用は思っていた以上に強烈で、髪の毛は抜け体は骨と皮しかないようにやせ細り、すっかり体力を奪われ、最後のほうは意識も薄れて飛んでいた。今まで元気だった母親はもうそこにはいなかった。つらい治療でも母親は耐えてきて、「ここまで耐えた患者は今までにいない」と医師や看護師が驚いていたそうだ。
2006年7月、高3の夏。母親が家に帰りたいというので自宅で過ごすことになった。僕も野球を早々と引退し、一緒に過ごすことになった。しかしそのころから黄疸が見られはじめ、再び病院へ。そして体の痛みから苦痛を和らげるため、モルヒネ(だったかな?あまり覚えていない)を投与することに。初め僕は反対した(子ども心として)が、母親も打ってほしいと願っていたため了承せざるを得なかった。僕も幼かったのかな?生きてはいるが眠った状態になる、ただ痛みや苦痛から全て解放される。本人が楽になれるならば仕方のないことだった。
夏休み最後の夜母親と同じ病室で過ごす。朝がやってきて、ぼくはこれから学校に行かなければならない。そしてこの数時間後には母親は眠りに着く。実質最後のお別れで、病室を出る前にお礼を言って、さすがに涙をこらえきれなかった。その姿を後ろから見ていた看護師は何を思っただろうか?妙に朝焼けがきれいだったのを覚えている。
そして夕方、進路指導室にいるときに、母親が亡くなった知らせが入った。薬を投与して数時間後のこと、本当に逝ってしまたっと。再び再会したその時、さすがに涙は出なかった。入院して1年もしないうちに人間はこんなになってしまうものなのかと。恐らく抗がん剤の影響が相当大きいのかと僕は思う。僕も当時、色々と調べ回って金も使い何としてでも助けたかった。正直母親が死ぬだなんて思わなかったしあきらめてなかった。けど最後の最後で薬を投与するという話が出たときにはさすがに折れてしまった。
入院したばかりの頃僕にあてた手紙が今でも残ってる。それと整理していたところ入院生活の心情を綴っていた日記も発見した。どういう気持ちで書いていたのか想像するだけで胸が痛い。
そういえば、入院している時、僕を気遣って親戚のおばさんが練習着を洗ってくれていたのだが、さすがに申し訳なく、自分で洗っていた。今まで(親が元気だったときは)練習着は洗ってもらっていたしそれが当たり前だと思っていた。野球部の土の汚れは相当ひどく、洗濯機だけではなかなか落ちない、そのため洗濯板でごしごしと洗い続けなければならないかなりの重労働である。自分で洗い始めた当初、相当辛くて泣きながら洗っていたっけ(笑)こんな大変なことを毎日してくれていたと思うとほんと感謝である。自分が不自由なく何かできているのはそれを支えてくれる人がいたからということ、今も強く思う。掃除だって洗濯だって食事だってなんだって。一人暮らししてからは自分で何でもやるというのが当たり前になったわけだけれども。

今頃生きていたらどうだっただろうか?姉は「生きていたら生きていたで苦労してたと思うよ」僕も同じ意見である。結局金銭的にやっていけてな方っと思う。以前に何度も書いたけれども、僕と姉が高校を卒業して進学できたのはじいちゃんばあちゃんがお金を出してくれた、おかげなのだ。
そして親父の話も。やっぱりおやじは鬱だったのかもしれないねと。死に方が死に方だったからさすがにかわいそうだたっと、親父嫌いであった姉は言う。福岡に旅立つ前、その前からもっと優しく手をさしのばしていたらちょっとは違う結果になったのかもしれない。僕も親父には素直になれなかったし、どこか毛嫌いをしていた。そこは後悔している。ただ、やっぱり母親がなくなったのが親父にとって一番のショックだったんだろう。
「やっぱり男のほうが弱いんだと思うよ」姉は言う。本当にそうだろう。僕も女の子がいなければ生きてはいけないし生きる気力も出ない。

普通の家庭の同世代ならば働きだしている年齢。これから親孝行をするのかもしれない。たまに実家に戻ってくれば温かく出迎えて、一緒に食事でもするのかもしれない。それができなくなった今、ちょっぴり寂しいもんだ。
7年経った今、振り返れば短い。ただ7年間という貴重な時間を僕は有効に過ごせただろうか。後悔ばかり多い。今も僕も迷走を続けている、これから先どうなるかわからない。少なくとも一度くじけたぶん強くなったと思うし、弱くもなたっと思う。けどこれから胸張って生きていきたいなあと。